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わたしたちの教科書 [わたしたちの教科書]

2007年4月から6月までの間、放映していた「わたしたちの教科書
もう間が開きすぎで、どういうドラマだったか、いまいちよく覚えていない。

五十嵐君演じる雨木音也は、インパクトがありすぎて、忘れたいのに忘れられない。
それくらい、強烈な役柄だった。

とはいうものの、彼の出演シーンだけで感想書くのは、あっちこっちでやってきたから、今回は全体についての感想を書くことにする。

DVDを見て、あぁーそういえば、そうだったってな感じで思い出した。
関係者の方には申し訳ないけど、これは買ってない。レンタル
正直、憧れの人のあんな姿、何度も見たくない!!ってな気持ちが拭い去れないから。

さて、このドラマは基本スタイルとしては2部構成。それぞれについてコメントしてもいいけど、この記事一本で仕上げるからには、今までのドラマレビューのような感じではなく、全体をひっくるめた感想と僕の個人的な考えを中心に書いていく。ここだからできるネタもある(笑)

五十嵐君のブログで最初からは出ない、ということはわかってはいたものの、何がなんだかよくわからんところにヒョッコリ出てこられても困るので、最初から見た。

副校長の息子役ってのはわかってたから、雨木っていう名を「あまぎ」と呼んでくれればいいなーって思ってたら、「あめき」だった。彼の役柄が次第にわかってきたから、結局は、「あまぎ」じゃなくてよかったーって思ったんだけどね。

仮面ライダーカブトとウルトラマンメビウスが揃うの見てみたい!って思ってたら、あった。
衝撃的なシーンでの競演だった。

放送順では、ひっくり返るのだが、「ハツカレ」よりも先に見た。こっちだと、それはなかった。

しかし、この舞台となってる学校、変な教師多すぎ!ってな感じで見ていた。

実際の学校現場でこんな教師ばかりが揃うなんてことは、普通は考えられない。ただ、こういう先生がどこの学校に行っても、一人もいないかといえば、そういうわけじゃない。

だから、指導力不足教師だとか、免許更新制導入だとか、いろいろ社会問題化された。

なぜか、他局作品にも関わらず、「金八先生」って言葉さえ出てきた。こっちもドラマ。何でもかんでも現実問題と置き換えてもしょうがないんだけど、現実に起こっている事柄をドラマの中で取り扱ってるっていう点では評価できる。

「3年B組 金八先生」と「わたしたちの教科書」。

違うドラマ同士で、どっちが良いとか悪いとか、批評してもしょうがないからやめるけど、僕も一応は大学で教職課程を学んでる。その中で、理想としてる先生は?っていうテーマで話すると、実際にその人が通っていた学校で出会った、実在する先生を挙げる人がいる一方で、「金八先生」と挙げる人もいるのもまた事実。だから、わたしたちの教科書であった、シーンもまんざらフィクションの話とも言えないような気がした。

モンスターペラレンツって言葉、今では言葉それ自体聞いても、驚きもしないのかもしれないけど、内容は、理解しがたいことばかり。

学校には、ウルトラマンなんていない。わけのわかんないモンスターが現れたって、駆けつけてくれない。いつも、対応は学校の先生。

学校の窓ガラスを割った生徒を叱る、そしたらその保護者がやってきて、詫びるどころか、「そんな簡単に割れるガラスを使ってる学校が悪い」と言い出す。自分の子の悪いことさえ叱らず、子供を叱ってくれた学校側を叱る、わけがわからない。

理科の授業中、「実験の結果はわかってるから、実験する意味がない」と他教科の勉強をしていた生徒を叱る。そしたらその保護者がやってきて、「この子の志望高校は3教科(国語・数学・英語)の試験しかない。受験科目以外の勉強をしても意味がない。この子が志望校に合格しなかったら、あんたのせいよ!」と言い出す。勉強=受験のため、っていうのが風潮としてできあがってるから、こういうことになる。

学校給食費を払えるのに払わない保護者がいる。義務教育なのになんで給食費を払わなくちゃいけないの?っていうのが、その保護者の主張。学校給食を食育のためのものとするのは賛成だが、時期尚早な気がする。本音は、そんなことまで学校でしなくちゃいけないの?なんだけど、現実的には、「一、腹ペコのまま学校へ行かぬこと!」さえ守られないのが実態。現実的にやむを得ないから賛成せざるを得ないというのが本音。

朝ごはんなんて作ってる暇がない!っていうのもわかるんだよ。
でも、忙しさを理由に、子育て放棄してるとも思えてならない。

そういう子供たちにとって、給食はある意味、ごちそうなのかもしれない。毎日いろんなメニューが食べれる。みんなで食べれる。朝・昼・夜、一日三食だとして、給食以外は個食っていう人を何人も見てきた。もちろん、一人暮らしとかは除いてね。

本来、学校という現場では、同年代や先輩・後輩など社会集団の中の自己のあり方とか、それぞれの学年の児童や生徒に身につけてほしい知識や能力、そしてそれらを身に付けるための方法などを学び、習得させる場のはず。ところが、学校には、それだけじゃなくて、家庭教育で行わなくちゃいけないことまでやらなきゃいけない。

前にも言ったと思うけど、家庭教育に関する条文が教育基本法に加わったとはいえ、即、どこの家庭でも、じゃあやりましょう!になるとも思えない。法律に書かれていようが無かろうが、本来は人間として、その子の将来を考えれば、自然とやらなくちゃいけないという使命感が現れるはず。ところが、家庭ではそれほど大きな変化が見られない。結局は、学校でやらなくちゃいけないことになる。

学校の先生は、教育のプロフェッショナル!だと思う。でもだからといって、何でもかんでもプロ任せにしていいとは思わない。保護者も、子育てのプロフェッショナルのはず。「あんたにこの子の何がわかるのよ!」と先生に楯突く保護者もいるけど、じゃあ、あなたはこの子のことを100%知り尽くしてるんですか?っていうと、どう答えるだろうね。

僕はね、保護者も、先生も、生徒や子供のすべてを知り尽くすなんて無理だと思う。
だって、子供だって自分のことを100%理解してるかっていうと、そうじゃないと思うから。

今までまったく興味なかったけど、ちょっとやってみて、「あ、なんか楽しい!」って思ってそっちの世界で活躍してる人、何人も見てきた。自分のことを一番よく知ってるようで知らないのが自分だと思う。

何でもかんでも学校任せ、さらに、学校内でも管理主義。何でもかんでも管理。もちろん、教室の鍵を管理するとか、生徒の個人情報を管理するとかそういうのは、当然だと思うよ。でも、教師が教師を管理してるように思えてならない。校長、教頭、主任に加え、副校長とかいう聞きなれない言葉も出てきた。

学習指導要領っていうのがある。早い話、全国どの学校でもこの文科省の告示を守って授業することで、どこの学校でも相当な学力を身につけさせることができる、というもの。でも、実際には、未履修問題があったり、学習指導要領は最低限の範囲であって、学校の実態に応じて、発展的な内容を扱ってもいいよって言い出した。

そんなこんなで、方針転換を次から次へとされてる。で、近々、学習指導要領そのものを変更する動きもある。
現場は大混乱だよ。今年までは右向け右、だったのが、教科書出版の都合上、周知期間はあるにせよ、突然、新年度からは回れ右!になるんだから。しかも、ややこしいことに、高校は順次導入になってることが多い。

つまり、1年は新学習指導要領に基づいて教育を行うのに、2年と3年は今までと同じ。次の年は1年と2年は新学習指導要領に基づき、3年は古い指導要領で教育を行わなくちゃいけない。指導要領が変わるって事は、教える科目名も新旧ごちゃごちゃになることもある。

そういう実態を知ってて、未履修問題を取り上げてたのか、マスコミに聞いてみたい。体罰教師とはちょっと違うと思う。

それでも、ことあるごとに、何でもかんでも学校の先生が悪者にされるように思う。
だから、事なかれ主義が出ちゃう。それだもん、いじめを学校が認めるなんて、できない。だから、雨木副校長の考え方がたぶん、学校の現実。生徒を守るんじゃなくて、学校を守る、自分達を守る、これは何もドラマに限ったことじゃなくて、現実でもそうだと思う。

そして、問題の矛先はいつも、「責任問題」。そして、毎日のように学校が報道のネタにされてた時もあった。今はどう?

学力が下がった、とかいうのはあったけど、また?って言いたくなるくらい、次から次へといじめ問題を取り上げてたのに、今はほとんどない。学校からいじめが消えたかっていうと、そうじゃないと思う。

生徒だって、誰もこれからいじめをします!なんて、宣言する人はいない。いじめられてる人だって、自分がいじめられてるなんて、そう簡単に言えるもんじゃない。

それで、どうやって、いじめを見抜けっていうの?
なんで、見抜けなかったんですか?と質問する報道機関はあっても、「こうすればいいんじゃないんですか?」というのはない。

いじめ対策マニュアルとか作っても、批評家がいろいろしゃべっても、それが効果あるなら、もうとっくにいじめがなくなってるはず。数年前からはじまりましたってわけじゃないんだよ?もうだいぶ前からあったんだよ?

今では、それほど報道という形で扱われることはないけど、いじめは今もどこかで起きてる。
って、なんかいかにも他人事のように言ってるように思うかもしれないけど、僕も実はいじめられてた経験がある。

直接、やってくるのはなくなったのかもしれない。学校裏サイトとか、ネット上の掲示板だとか、情報教育でいう、「インターネットの光と影」の影の部分でいじめが起きてるのも事実。卒論の研究活動の一環として、調査したことあるけど、そう簡単にはヒットしない。じゃあないかっていうとそうじゃない。それをビジネスにしてる会社もあると聞いたくらいだから。わけわかんないよ、そんなビジネスが成り立つくらいの数が存在してるってことだと思うから。

さっき言ったように、いじめられた経験あるから、当時はいじめっ子をめちゃくちゃ憎んでた。いなくなればいいのに!って思った。だから、ある意味、音也みたいなのがいてくれたらって、当時は思ったかもしれない。

音也について。いじめを無くそうとするその心意気はいい。でも、やり方がどうしても気に入らない。いじめをなくすためなら、どんなことをしてもいいかっていうと、そういうわけじゃないと思う。いじめる人がいなくなれば、いじめが無くなるとも今では思えない。いじめられてた人がいじめる側に変わることもあるから。

でも、音也だって、あんな冷酷な性格のまま生まれてきたわけじゃない。五十嵐君本人の写真まで小道具として使ってたくらいだけど、音也にだって、幼少時代はカワイイ時もあったはず。そのころのことしか頭にない副校長も副校長だったけど、今の姿を見られないというか、見ようとしないそんな感じが見て取れた。ある日突然、音也みたいな冷酷な人間になるなんてのは、滅多に無いと思う。そうならないためにも、子供にはしっかりした教育をしてほしいと思う。愛情をたっぷり注いで欲しい。

でも、子供はお人形じゃない。かわいがればそれでいいかっていうと、そうじゃないはず。間違ってることは間違ってるときちんと教育してほしい。叱ってかわいそうと思うくらいなら、間違ってることを間違ってると教えられずに育った子供のほうが、ずっとかいそうだと思って欲しい。

反抗期に、あーだこーだと叱っても逆効果。余計、反発しちゃう。
むしろ、それが正常。

でも、叱るには、「信頼」と「愛情」が必要不可欠。この人が言うんだから、良くないんだって思わせるためには、まず信頼関係が何より大事。それは、親と子だけじゃなく、先生と生徒でも、いろんな場面で言えること。そして、この人のため、を思って叱る。それが愛情。かわいがることだけが愛情じゃないと思う。

もちろん、誰だって叱られて気分いいもんじゃない。その後は、抱きしめてあげることとかしてほしいと思う。
そのときは、何で怒られなきゃいけないんだ!と思うことがあっても、年齢を重ねると、この人はこういうこと言いたかったんだとか、そのありがたみがわかるようになると思う。

子供は親の背中を見て育つって言葉がある。子は親を写す鏡という言葉もある。
こういう親になりたい、こういう親には絶対になりたくない、いい意味でも悪い意味でも、少なからず影響を与える存在だと思う。

学力テストで成績がどうのこうの、いろいろ言われる。学力低下だ!授業時数増やそう!という動き。
僕個人としては、だから何?って言いたい。

テストでわかるのは、学力があるかないか、じゃなくて、覚えてるか覚えてないか、だと思う。
教科書は本来、「真実」を書かなくちゃいけない。でも、歴史教科書によくあるように、今までこれが聖徳太子の肖像です!と教えてたのが、実は別人でした、なんてことがおきる。

今までの常識が常識でなくなることだってある。
教科書に書かれてることを、ただただ鵜呑みにして、その先もずーっとこうなんだって思ってたら大きな間違い。

メビウスであった。
「水金地火木土天海。あー次が言いたい!!」とペテン師が言ってた。
当時の教科書に書かれてるのが、今では間違いってなるんだよ?

教科書に書かれてるのが、間違ってるとは言わないけど、このさきもずっと正しいとは限らない。

『ACTION-ZERO』でもある。
「誰もみんな信じてる真実、それだけが、正しいとは限らないのさ。その目で確かめろ♪」って
教科書は正しいって思うでしょ?でも、常に正しいとは限らないのはさっき言ったとおり。その時、どうなのか、常に調べていかなくちゃ行けない。確かめなくちゃいけない。今はそんな時代。

だから、「生きる力」を育む教育を推進してきた。いわゆる調べ学習。
調べて、まとめて・・・そんな授業を推進してきた。調べればその時の正しい答えが出てくる。覚えてたって意味が無いじゃん。そのうち変化するんだから。

「国会議席の定数、覚えろ~テストに出るから~」社会の授業ではよくあるパターン。そういう授業されて、ちょっとしたら変わったんだよ?そういう授業されて、今でも昔の定数のまんま覚えてて、模擬授業してた後輩もいた。

なのに、今でも、テストでは学力というか、知識の有無、記憶力を問うような問題ばかりだから、応用力も何もつかない。学力って僕は、「学び続ける力」のことだと個人的には解釈してる。生涯学習って言うじゃない。学校で教わった知識はそのうち陳腐化していくから、常に学び続けなくちゃいけない。一生涯、学習し続けなくちゃいけない。そのために、どうするか?調べる方法、学習する方法について学ぶんだよ。

その例として、eラーニングだったり、インターネットで調べるとか。
何も、これは情報という授業に限ったことじゃない。いろんな教科でコンピュータを使って授業をしていかなくちゃいけない。だって、教科書って古い統計資料が出てるじゃない。今はどうなの?変化してるの?してないの?これを調べる方法として、インターネットがある。

だから、普通教科、情報を新設して、どこの学校の生徒でも学ぶ科目として位置づけ、インターネットの使い方とかそのしくみ。コンピュータの使い方、調べたことを文書としてまとめるためのワープロソフト、統計資料からグラフを作り出したり、計算したり、関数使って平均を求める、表計算ソフトウェア、まとめたことを発表するためのプレゼンテーションソフト。

もちろん、インターネットで調べ学習するにせよ、間違った情報も多くあふれてる。あふれる情報の中から、適切に必要としている情報を利用する方法なども学ぶ。また、インターネットでいろいろ問題になってる事柄に対しても扱い、インターネットには便利なことばかりじゃないということも教える。中学校でも、技術科では、これまでは選択だったのに、コンピュータ関連分野が必修となってる。

この情報の授業を基礎に、他の教科と連携して、これからの社会の未来を担っていく人たちに、「生きる力」を育ませようとして、今までやってきた。

ところが、うまく機能してなかったというのが実態。情報を高校3年で扱う。何考えてるのか、よくわからん。卒業単位だからやったというだけで、本来の趣旨とは大きくかけ離れてる。

だから、変えると言い出した。基礎基本の徹底をしたうえで、学ぶ力をといい続けてきたのに、「学力低下」という批判を受け、方針転換をしだした。今までの教育環境で受けてきた人たちはどうなるんだろうね?上の世代はいっぱいお勉強、したの世代もいっぱいお勉強。でも、自分達はゆとりの世代。それが、もうじき起きるんだよ。

こういう教育はコロコロ変わる。でも、人間として、本当に必要なのはそういうことじゃないと思う。「豊かな人間性」という言葉もある。早い話、心の教育。人への思いやり、さまざまなことに対して感動できる心、感性、そういったものは、そう簡単に身につくものじゃないし、調べてわかるといったものじゃない。とっても時間がかかる。でも、一度染み付いたものは、そんなに大きく変化するものじゃないと思う。

人間としてあるべき姿は、いつの時代も普遍的なものだと思う。
学校教育でこれを求めるというのは無理がある。生徒達がいろんな社会体験などを通じて、みんなが何かしら心に刻んでいくものだと思う。誰に強制されるわけでもなく、自分から進んで行動していく、それが何より大切なことだと思う。

人間が皆、豊かな心を持っていれば、いじめなんてしないはず。
人間が皆、豊かな心を持っていれば、さまざまなことを学びたいと思うはず。

日本は、物に対しては、何不自由なく暮らしていける。でも、心はずさん。

「わたしたちの教科書」で取り上げられていたように、世界には、食べ物も満足に食べれない人がいる。
日本は、食べ物を平気で捨てる人がいる。世界に目を向ければ、ちょっとは罪悪感のあることだと思う。

食品偽装が立て続けに起きた。「もったいない」と主張する企業。
でも、安全安心を求める消費者。

安全安心、それは食べ物がいっぱいあるから言えるのであって、生きるか死ぬか、そんな状態なら、安全だの安心だのそんなことはいちいち言ってられない。賞味期限がちょっとくらい切れたって、消費期限が切れなければ平気だろうと言う人もいる。世界には、消費期限なんて便利な数字がない食べ物を食べなくちゃいけない人たちもいる。全く食べれない人たちもいる。借金大国といわれる日本でも、今は、食べ物には不自由ない。世界から見ると、まだまだ裕福な国だと思う。

このドラマを見る以前から、参加はしていたのだが、少しでも、発展途上国の国の人たちに希望を与えることができるのなら、ということで、ユニセフに参加してる。毎月、大金ではないが、寄付してる。

買いたいものもいっぱいあるけど、少しでも世界の子供達のお役に立てるならと、毎月コツコツ貯めてる。

僕自身が、世界に目を向けられる人でありたいと思うから。
僕自身が、優しい心の持ち主でありたいから。

一人じゃできないことだけど、みんなで「世界を変えることはできる」はず。
みんなでやる、その中のメンバーにはなれる。だから、今もこうしてユニセフに募金し続けてる。

知識習得のための教科書よりも、人としての優しさをずっと失うことの無いように、自分自身のための教科書を、ずっと心にしまっておきたい。それが「僕の教科書」。

あなたにとって、教科書とは何ですか?

というこで、「わたしたちの教科書」でさまざまな場面で取り上げてたテーマを元に、さまざまな視点から、考えてきた。

今までみたいな感じのレビューもそれはそれでいいのかもしれないけど、せっかく教職過程を学んでるんだから、それで得たこともここで書いてみた。ちなみに、わたしたちの教科書の終盤が、僕の実習期間と重なったのは、周知のとおり。

このドラマ、僕の心にはかなりグサリと残った言葉もあった。
この言葉いいな~じゃなくて、超現実的主義的な言葉。
「そうかもしれないけど、でもなー・・・」って思ったこと、何度あったことか。数え切れないくらいあった。
でも、それもこれも、みーんな、考えるきっかけ作りにはなったことは確か。

生徒の人生を預かるんだよ、教育者って。
いい意味でも、悪い意味でも、生徒は影響を受けるし、先生は影響を与える。
そのことを自覚して欲しいと思う。

教育している時点では、成果が実らない。
教育って、今のためにするの?僕は違うと思う。
その人の将来、つまり未来のために教育するんだと思う。

後になって、この先生がいたから、今の自分があるんだと思えるような、教育をしていってほしいと思うし、僕自身そういう人でありたい。

先生になってもならなくても、親になっときには。

まぁ、「思い出の先生」の中でも言った事もあるけど、以上、わたしたちの教科書を題材にした記事はこれでおしまい。
ネタとして使うことがあるかもしれないけど。

次は、またまた思考を変えて、死化粧師へとつなげる。
これは、いつもどおりのパターンでレビューする。

死化粧師、待ちに待った80兄さん登場の話。
放送はなぜかちょっと遅れる。

今から楽しみ!


2007-12-07 17:32 
共通テーマ:テレビ


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